高齢者詐欺 今日のニュースで新たな詐欺の手口報道されていたので紹介しておきたい。
「2人組みの若者による新手の詐欺手口」
まずは、田舎地方(特に山間)に住む老人宅へガスや電気の点検だと偽って作業着で訪ねる。
次に自宅に上がり、各所を点検し、見て回る。
そして、点検が終わったとつげ、手数料として1000円を請求する。
ここで注意してほしい点がある。詐欺者はこのときお金を請求しているが、これは、1000円を騙し取る詐欺ではないということだ。
詐欺者はこのとき老人がどこから財布を出してどこに片付けるかを 見ている。これは、この後の手口に重大なヒントを与えてしまっているのだ。
その後、一人が老人と世間話をし出す。世間話が盛り上がってきたところで、もう一人の詐欺者が、先ほど老人が片付けた財布の中や引き出しの中からお金を取る、というのが一連の手口。
空き巣に近いこの手口で、既に100世帯ほどの家にあがりこみ、詐欺を繰り返しているという。何の苦労もなく稼いでいるなんとも腹立たしい2人組だ。
詐欺は、こうした“なりすまし”手口がほとんど。 ガスや電気の点検は、予告なく訪問してくることは無いため、まずは勇気をもって“疑う”ことが大切である。奥深き日本語 外国映画の和訳字幕を見ていればいるほど、日本語の表現は実にたくさんあるのだということに改めて気づく。
1つのことをあらわす単語や文がたくさんあって、使い方や使う場所によって相手への微妙な伝わり方が変わってくる。
例えば・・・・ 嬉しいわ 嬉しいよ 嬉しいの 嬉しいです 嬉しい 嬉しいっ 嬉しっ
など。メールに書くときにも、最後につける語尾を何度も書き換えることだってるくらい、たくさんある。
こうした表現の多い難しい日本語のおかげで、近年は間違った日本語が当たり前に使われていることが問題視されているようだ。
例えばカフェに行って、珈琲を注文すると 「珈琲のほうでよろしかったでしょうか」 と店員が注文を繰り返してくる。
※何気なく「はい」と応えているが、 「珈琲と紅茶の二者選択」から選んでいるわけではないため 「珈琲でよろしいでしょうか。」 でいいはずだ。そしてさらに、過去に注文したものを掘り返してきているわけではないので「よろしいでしょうか」が語尾にくるのだ。
つづいてお金を支払うと、店員が 「500円からお預かりします」 といってお金を受け取る。しかし、ここでも大きな間違いが有る。500円「から」1000円(仮に)までといった曖昧な数を支払っているわけではないので、「500円お預かりいたします」でいい。
さらに出来た珈琲を持ってきて 「こちら珈琲になります」 と言って珈琲を差し出す。ここでも、ストップである。珈琲はこの後珈琲に変身したり、あるいは何かに変身するわけではないので、「お待たせしました。ご注文の珈琲でございます。」で充分だ。
このように、いいやすさやよく聞く言葉を何気なく使うと間違った日本語ばかりで暮らしていることになる。
これを聞いて育つ子供たちや、各地で聞く外国人観光客も間違った日本語を当たり前のように覚え、使っていく。やがて日本は間違った日本語だらけとなってしまう。
恐ろしいもので、人間はなれると違和感がなくなってしまい、逆に定着した後で訂正されたことにより強い違和感を覚えてなかなか修正が効かないというようなことにもなる。
私達は日本に産まれ、たくさんの表現により、より豊かに物事を捉えて伝えることができるのだから、それを誇りに思いながら正しい日本語を巧みに使いたいものだ。
参考文献:国際通信社グループ 報道通信社/報道ニッポン 移住を背景にしたコミュニケーションの重要性 詐欺だ殺人だと騒ぎが相次ぐ雑踏社会 仕事やプライベート、果ては家族との人間関係の崩れる人間社会
そんな社会から逃げようと 自由を求めて沖縄や北海道といった自然溢れる地域へと 移住する人が増えているというが、果たして、都会での社会を 受け入れられなかった人々に、自然社会が受け止められるのか。
自然社会には雑踏社会のように歩けば方がぶつかるほどの人はいないが 雑踏社会以上に、地域の係わり合いは濃密である。
医者が町に一つ。スーパーが一つ。バス停が一つ。そんな町で、 すれ違う人を無視して生きていけるのか。いわゆる“よそ者”として 地域の人へ接するだけのコミュニケーション力が無ければ、 たちまち雑踏へと逆戻りである。
社会はどこへ行っても結局はコミュニケーションだ。 コミュニケーションを無視して社会で生きることが 最も困難なことなのだ。
参考文献:国際通信社G・報道通信社 発刊/報道ニッポン -沖縄移住の是非を問う- より
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