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都会の喧騒から脱走
3連休、岐阜へ行ってきました。 旅にでかけるときには、ほとんど電車を利用するのですが、 今回は車で出かけました。旅の途中、ガソリンを給油しようと ガソリンスタンドへ入ると、一時期ドライバーをこれでもかと 苦しめていたガソリンの価格が随分おちついていました。 まだまだ街ではパンや牛乳、バターが高級食材といわんばかりの 値上がりを続けていますが、せめてたまの休日に遠出する ドライバーのお財布に優しいガソリン価格が続いてほしいものだと 切に願っています。 さて、岐阜県は養老町というところへ言ってきました。 養老といえば、“養老の滝”でおなじみですが、ここは名水の地です。 こんこんと湧き出る山の水は、冷たくてすーっと喉に入っていきます。 すでに紅葉が始まっており、山が少し黄色や赤く染まってきていました。 岩を打つ滝のしぶきが風にのり、時折ほほに当たるのが なんとも気持ちよかったのです。 都会の喧騒から離れて、こうした大自然を味わっていると なんだか異国の地へ来たような壮大な気分に浸れます。 テレビのニュースでは、詐欺だ偽装だ殺人だと毎日毎日 暗いニュースばかりだけど、ふと自分の周りに起こった出来事を 小さなニュースにしてみると、ちいさな幸せが溢れているのだと 気づかされました。 宝くじが当選しなくても、役職が上がらなくても、 お金持ちになれなくても、幸せを目指さなくても 素晴らしい空気の中で生きれているのかもしれません。奥深き日本語 外国映画の和訳字幕を見ていればいるほど、日本語の表現は実にたくさんあるのだということに改めて気づく。 1つのことをあらわす単語や文がたくさんあって、使い方や使う場所によって相手への微妙な伝わり方が変わってくる。 例えば・・・・ 嬉しいわ 嬉しいよ 嬉しいの 嬉しいです 嬉しい 嬉しいっ 嬉しっ など。メールに書くときにも、最後につける語尾を何度も書き換えることだってるくらい、たくさんある。 こうした表現の多い難しい日本語のおかげで、近年は間違った日本語が当たり前に使われていることが問題視されているようだ。 例えばカフェに行って、珈琲を注文すると 「珈琲のほうでよろしかったでしょうか」 と店員が注文を繰り返してくる。 ※何気なく「はい」と応えているが、 「珈琲と紅茶の二者選択」から選んでいるわけではないため 「珈琲でよろしいでしょうか。」 でいいはずだ。そしてさらに、過去に注文したものを掘り返してきているわけではないので「よろしいでしょうか」が語尾にくるのだ。 つづいてお金を支払うと、店員が 「500円からお預かりします」 といってお金を受け取る。しかし、ここでも大きな間違いが有る。500円「から」1000円(仮に)までといった曖昧な数を支払っているわけではないので、「500円お預かりいたします」でいい。 さらに出来た珈琲を持ってきて 「こちら珈琲になります」 と言って珈琲を差し出す。ここでも、ストップである。珈琲はこの後珈琲に変身したり、あるいは何かに変身するわけではないので、「お待たせしました。ご注文の珈琲でございます。」で充分だ。 このように、いいやすさやよく聞く言葉を何気なく使うと間違った日本語ばかりで暮らしていることになる。 これを聞いて育つ子供たちや、各地で聞く外国人観光客も間違った日本語を当たり前のように覚え、使っていく。やがて日本は間違った日本語だらけとなってしまう。 恐ろしいもので、人間はなれると違和感がなくなってしまい、逆に定着した後で訂正されたことにより強い違和感を覚えてなかなか修正が効かないというようなことにもなる。 私達は日本に産まれ、たくさんの表現により、より豊かに物事を捉えて伝えることができるのだから、それを誇りに思いながら正しい日本語を巧みに使いたいものだ。 参考文献:国際通信社グループ 報道通信社/報道ニッポン ネットカフェ難民 国際通信社の発刊する「報道ニッポン」は、 ネットカフェ難民の唯一の救いは、彼ら本人い働く意志があるという点だと書いている。 かつて流行したニートという言葉。今ではニート=契約した仕事を持たないアルバイター的意味を含んでいるようだが、ニートとは仕事も何もしないことを指している。 仕事をしたくないと家に引きこもり、社会とのコミュニケーションさえ辞めてしまっている人よりも、家賃を支払えずにネットカフェで仮眠をとって、昼間は働きに出る。お金が充分に稼ぐことができれば、皆住居を探し、より安定した職業につくことができるということを分かっているのが救いだといっているのだ。 ただ、世間には職業難という問題がある。加えて、物価上昇や経済の発達や住居、街の発展に対して一般的な給料額がさほどあがっていない。都会における地価や住居の価値があがっているのに、給料が追いつかない。住居を確保することが難しい世代がでてくるのは言わば当然なのかもしれない。 誰かが十分に稼ぐ裏で、誰かが貧しい生活を送っている。たとえ貧しい人が減ったとしても、充分な仕事を得る人がいれば、充分な仕事につけない人がでてきてしまうサイクルが出来上がっているのではないかと思う。月々10万円の稼ぎで5万円の家賃の家には住めない。運よく3万円の家賃で見つけることができれば、可能といったところだろう。 早くこうした現状から脱却しなければ、ネットカフェ難民は増える一方だ。住居よりもネットカフェが街に溢れ、住居賃の払えない世代から、地価代を稼ぐといったサイクルが産まれてくる気がしてくる。 現代通信社 報道通信社 報道ニッポン 報道ニッポン 報道通信社 |
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